開口神社(念仏寺)御造営あらまし A

@に続いて、当社手元記録より御造営に関することを続けます。
嘉吉2年11月(1442年)に、和泉守護の細川基之、教春両名による連歌田寄進状と法楽連歌月次料田寄進状が出されています。
この頃にはすでに戦前まで在った連歌所が出来ていた可能性はあります。

延徳2年10月晦日(1490年)付けで「念仏寺修理料足預状」というのが有り、修理のため賽銭を担保として5貫文を借りる文書があります。同じ年の3月に舎利壷が寄進されていますので、あるいはこの頃 搭の修理が行われたかも知れません。修理そのものの記録はありません。

堺の3大大火の一つ、天文の大火が天文元年(1532年)12月にあり、北庄の全部と南庄の2/3が焼けたと伝わっています。開口神社念仏寺の土塀にも火が入って、修理が行われた記録があります。それが堺で千利休の名前の初見の文書で有名な「念仏寺築地修理料差文」です。
一般には「念仏差帳日記」といわれています。
天文4年4月28日(1535年)付けの文書で、各1貫文寄付した奉加帳であります。

この少し後天文11年には住吉大社の遷宮がありました。関連があったのかよくわかりませんが似た時期に修理を行っています。
この後修理遷宮等の記録は、江戸時代になって幕府の指図の元に数回の修理を行った記録が、是は比較的詳しく残っています。


Bとして次の機会に譲ります。

          開口神社(念仏寺)御造営あらまし @

当社の手元資料では、大寺縁起絵巻による創建時は別にすると、初めての造営関係記録は
建保7年4月(1219年)付け文書で「堂供養布施等注文」並びに「塔供養等導師布施目録」
です。 絹・馬・米・太刀等の品々が布施の内容として記載されています。
住吉大社遷宮が同年に行われています。

次は
天福2年2月(1234年)の「一切経蔵建立注文」です。この文書の中に承安4年(1174年)に住吉惣大工の手による一切経蔵建立の記述が有ります。承安4年は住吉大社遷宮の年に当り、天福2年も同じ年で元号が変わった文暦元年遷宮があり、文中に「住吉大神宮造立間(中略)堂社建立例事」とあり、住吉遷宮に倣う事が恒例のことと意識されています。

室町時代前半は造営記録が残っていません。正平年間には地震が有り、14世紀末には応永の大火が堺でありました。この間は田畑の寄進状が多く残っています。

そうした中で、
永和元年12月(1375年)付けの「年中行事次第」には、塔行僧膳米3斗云々、南大門灌頂云々、正権両殿開口4人云々の文言が見えますので、社殿堂宇等の建造物が備わっていた事がわかります。

@の最後には
応永32年5月28日(1425年)付けで「塔婆造替日時勘文」に6月20日礎を作り、7月5日立柱を行うとあります。ここでは住吉のことは書かれていません。

今回は是まで。次の機会にAとして続きます。

               行基、弘法大師と開口神社の繋(つな)がり

行基菩薩は開口神社の神宮寺であった念仏寺(明治初年廃寺となる)の創建者にして本尊薬師如来像を刻彫し納め、弘法大師は念仏寺に宝塔を建立し聖徳太子彫刻の大日如来像を納めたと当社古記録に有ります。

行基は周知の様に河内国蜂田村、今の堺市西区家原寺町にある家原寺の地で天智天皇七年(西暦668年)に生まれ、大僧正になるまで民衆の為に橋を架け池を掘り布施屋(一種の宿)を作るなど大いに民業を高める社会事業をなした人でした。
それが為今に人々から崇敬され親しまれています。

又弘法大師は平安初期の人で高野山に真言の道場を開き、日本最古の学校と言われる綜芸種智院を開校し、讃岐平野を中心に池などの灌漑施設を作っています。更に彼は様々な奇跡のような事を生じさせる霊力が備わっていたようで、それと密教と併せ持って様々な利益を齎せたそうです。21日は大師日として人々に敬われています。念仏寺は真言宗でありましたので大いに大師と関係がありました。

先にお届けした大寺縁起の中には、大師が念仏寺に参篭の折開口大神が示現され、大師に請うて真言の道場にするよう願ったと記載されておりその対面された場所が今に影向石として伝えられ、境内に大切に残されています。

江戸時代まで堺区市之町東4丁あたりに、方違神社の別当寺であった向泉寺という寺院がありそこの縁起にも行基・弘法大師との関係が深い事が書かれており、堺周辺は両聖人との関わりが強い事が知れます。

            堺市立第一幼稚園と開口神社

平成24年4月1日より第一幼稚園は、少林寺小学校の校舎に移転します。現園舎の耐震性が無い事が判り、急遽引越しとなったようです。此れまでの園舎は堺区甲斐町東3丁1の開口神社敷地跡に立つUR賃貸住宅の1階と2階にありました。

明治19年5月に私立の幼稚園が当神社境内に設立されました。しかしこの幼稚園は翌年公立堺幼稚園となったが、22年9月廃止と成りました。その後32年再び境内連歌所に市内有志者と市の補助で私立堺幼稚園が設立され、市立幼稚園の前身となります。

園児増加等で移転もありましたが、明治40年境内の女子高等小学校跡に落ち着きました。大正3年4月園舎改築を行い、4年1月より使用開始されました。この年6月の神社の記録では、敷地面積568坪程賃貸期間20年、堺市からの土地代年200円と有りますが、堺市史では581坪となっていて少し面積が違っています。

昭和20年の戦災の為焼失し、28年境内に再建されました。その後焼失した本殿再建の為に昭和36年園敷地を堺市に売却した為、神社と賃貸関係が無くなりました。

戦前は三重塔の欄干をバックに園児の記念写真を撮ったりして、境内も幼稚園に利用されていました。
最近では創立100周年を記念して境内に建立された記念碑に埋めたタイムカプイセルを、10年目の今年3月開けました。思いの外昔のままの姿でした。中身も異常なく感激しました。

薬師社と薬師如来坐像について
           重要文化財 「大寺縁起絵巻」 についてのお話

昭和
251220日に それ迄国宝指定でしたが法律の改正等で、重要文化財に変更されました。
江戸時代元禄3年(1690)に奉納された3巻より成る、開口神社と神宮寺であった念仏寺(明治になり廃寺となる)の由緒と念仏寺を開いた行基の生涯を記した絵巻物です。
詞書は関白近衛基熙はじめ25名の法親王公卿達が各節を分掌しています。絵は土佐光起の筆になります。
絵の作者である土佐光起の祖父光吉、父光則は、16世紀後半から17世紀前半頃堺を拠点に活動していました。堺生まれの光起は寛永11年(1634)父と共に京都に移り土佐派の絵師として朝廷絵所預の役に任ぜられ、土佐派の再興を果たしました。
この絵巻は光起の亡くなる前年辺りに作製され、天正年間(15731592)に焼失した原本の復元を意図した作品で、光起の手になる丹念な下絵が別に残されており、堺縁の絵師による記念碑的な大作の絵巻として大変貴重です。また元禄期の堺の文化力と富と力を今に伝える大事な証拠品でもあります。                              
《大阪市立美術館に寄託中です》             (一部堺市文化財課ホームページ参照)

この面に念仏寺銘が有ります

     本願寺別院 
この建物の右側手前に鐘楼が立っています

境内側

山之口商店街側

西参道にある手水鉢

舳松神社の手水鉢

戦前の茶室

平成元年に再建した現在の茶室

          茶室 無礙庵(八窓茶室)のこと

今年(平成24年)の秋の文化財特別公開でご覧頂きます無礙庵は、武野紹鴎好みの茶室と伝えられ、戦前は八窓茶室とも八窓の席とも称していました。

武野紹鴎は甲斐或いは若狭の武田氏一族の流れをくむ人で、奈良に生まれ後堺へ移り住みました。 北向道陳と往来し又利休を薫陶した中世堺の中心的数寄者の1人で、利休の名もある当社古文書「念仏差帳日記」にも記載されています。
南宗寺の大林和尚に参禅し、天文18年8月1日に道号を授与されました。
堺から住吉にかけての林泉を愛し、紹鴎の森と称される処もあったそうです。

当社の八窓茶室(今は無礙庵)伝来の詳細は詳らかではありませんが、戦前は境内南側の客殿の庭園の脇にありました。
よくこの時期の特長を伝えていましたが、昭和20年7月9日夜半の戦災で惜しくも焼失し、平成元年7月現在の客殿横に乏しい資料を元に再建しました。
敷地の関係で東向きが南向きに変わり、床は蹴込床から本床に変わっています。
八窓と云いながら7つの窓であるところから、再建にあたり無礙庵と名付けられました。
四畳半の茶室と三畳の水屋からなり、躙り口は鴨居に達している障子であります。

薬師社は本殿北側に在り、その御神体として御祀りしています。欅材と思われる材で彫られた、像高56、2センチ 平安後期の作です。指定文化財では在りませんが堺では古い時代に属します。

昭和39年以降節分祭の日にご開帳し、行者による護摩供養を行っています。

堺鑑(1684年刊)、和泉名所図会(1796年刊)等には、大寺境内の北東部に瑞森薬師堂があり大寺の秘所であり、そこに行基作と伝えられる薬師如来像が安置されていると記されています。

神宮寺の念仏寺のご本尊でありましたが、戦前までは廃仏毀釈の影響で外部に出せず、それこそ秘蔵しておりました。

大寺縁起絵巻にもその中巻第十段に行基作とかかれていますが、故中村直勝博士によりますと実際は平安後期作であるとみとめられる秀品だが、惜しむらくは像の一部の修理が十分でない事だとの指摘があったそうです。

                 手水舎(西参道脇にあります)

山之口商店街に面した、西の表参道に戦災から免れた唯一の手水舎が有ります。
戦前は北参道・南参道にもありました。北の手水舎にあった手水鉢は貞享元年(1686年)奉納のものでしたが、戦災で無くなっています。南の手水舎は屋形が無くなりましたが、鉢は西参道脇に置かれて使っていません。

現存の手水舎は堺市教育委員会の調査によると、木鼻・絵様肘木・花肘木・面取角柱などは江戸中期の様式をよく伝えていて、実例が少なく貴重な建物だそうです。
江戸中期といえばこの建物に収まっている手水鉢は、宝永七年(1709年)大町浜の壷屋作左衛門が奉納しているので、宝永5年に造営正遷宮が行われた事とも合わせて、同時期に屋形も出来たと思われます。
この手水鉢の正面に丸に錨型十字紋があることから、隠れキリシタンの表象かもという人も多くいます。神社の紋とも違い、壷屋の家紋が正面に来るとは思えないので、謎のしるしです。

ほかに末社舳松神社前に、舳松神社の銘がある手水鉢が有ります。
明治40年5月に寺地町東から移転される事が決まる前の年 明治39年9月の文字が彫られています。

因みにこの手水舎の水は井戸水ですが、飲料水になりませんのでお飲みにならないで下さい。

             三重塔の恩人 河盛仁平

開口神社神宮寺の念仏寺の三重塔は廃仏棄釈の流れの中で処分されるところを、明治6年金三百円の大金で此れを購入しその後開口神社に寄進した河盛仁平による尽力で、無事明治初期の荒波を越え昭和の戦災まで残す事が出来ました。

河盛家の一統は三家の流れが有り皆屋号を河内屋と号し、仁平は別家筋であった様です。
彼は綿布問屋と廻船問屋を営み、千石舟を松前との間に18隻配船していました。会計御用掛を明治新政府から任ぜられ、その後堺の小区区長となり明治天皇が明治十年に堺に巡幸された折の御在所を提供するほどの力を持っていました。

高野山の御堂の再建・四天王寺に聖徳太子尊像寄進・架橋などの土木事業や喜捨を通じての人助け等をする一方、質素を旨とした生活であったと云われています。

趣味は相撲で、贔屓力士を自宅に招いていました。
家運は時代の流れの中で続かず、明治18年4月53歳で寂しく世を去りました。

(大醤株ュ行「むらさき」、堺市史など参照)

影向石

                金龍井の事

金龍井は
山之口商店街に面した神社の西参道入口(西門)大鳥居南側にあります。元はこの西門の前にあった海会寺の井戸でしたが元和の大火の後南宗寺境内に移転した後は、大寺(開口神社)の物となりました。この井戸のことは和泉名所図会、全堺詳誌など江戸時代の書物にも記載されています。
和泉名所図会にはこう記しています。

むかし、龍神出て、乾峰和尚(海会寺の創建者)に曰、精舎を建給はゞ、初メに井を掘給へ。其井の清泉をしらんとならば、試に地上に鵜ノ羽を布(しか)ば、白露浮まん。其地に就て井を開かば、清泉を得るべし。和尚、其言の如くするに、果して名水沸出す。

井戸の横に宝暦3年(1753年)建立の石碑が在りこの謂れが刻まれています。
戦後井戸の口が伏せられたままでしたが、大小路界隈夢倶楽部の方々の手により井戸替えを行い、屋形を作って頂き、見違えるようになりました。井戸が生き生きと蘇りました。竜神様のご加護を求めてお越しになる方が増えています。

                

         明治6年までは境内にあった梵鐘について

行基が建立したと言われる神宮寺の念仏寺の梵鐘についてお話します。

現在は本願寺堺別院の所蔵で、境内南寄りに在る鐘楼に吊るされています。江戸時代初期に起こった大阪の陣で、焦土と為った堺の町を時の堺奉行長谷川藤広が 町割りを行い復興させた折の元和3年(1617年)に、この鐘を鋳造し念仏寺(大寺)に寄進して神仏の霊験を導き町民の繁栄と安全を祈願したと云う事です。

別院にこの鐘が移った経緯は定かではありませんが、明治6315日付けの堺県令税所篤宛口上覚に旧鐘楼塔1基他不要の居宅・仏閣を入札したいのでその許可を求めています。

400年前の年代の分かる市内最古の物で平成13年に堺市指定文化財に指定されています。

廃仏毀釈の流れの影響で当社の戦前の境内から無くなった物の一つです。

堂供養布施等注文

一切経蔵建立注文

塔婆造替日時勘文

千利休、武野紹鴎、北向道陳他有力な商人の名前がある

重要文化財「大寺縁起絵巻」について

明治
6年までは境内にあった梵鐘について

薬師社と薬師如来坐像について

金龍井の事

堺市立第一幼稚園と開口神社

三重塔の恩人 河盛仁平

行基、弘法大師と開口神社の繋(つな)がり

手水舎(西参道脇にあります)

開口神社(念仏寺)御造営あらまし @

茶室 無礙庵(八窓茶室)のこと

開口神社(念仏寺)御造営あらまし A

影向石のこと(竈神社=三宝荒神社の北側)

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開口神社の事を少しでもご理解頂けるように、神社境内の建物や所有の宝物のこと、簡単な歴史
など色々お知らせする為にコーナーを設けました。順次追加いたしますので、ご期待ください。

泉陽高校発祥の地 記念碑

三国丘高校発祥の地 記念碑

開口神社(念仏寺)御造営あらまし B

         影向石のこと(竈神社=三宝荒神社の北側)

影向石は神仏がお姿を現される御座の石のことで、各地にあります。当神社にも在ります。
戦災後位置が変わっていまして、今は境内東側、竈神社の北側にあります。

昔は大寺の結界地として神聖視され瑞森と称せられていた境内東北の場所に薬師堂があり、
そのお堂の前にありました。
明治6年4月に、薬師堂を末社白髭神社の社殿として活用すべく遷座が行われました。
因みに当社の白髭神社の御祭神は猿田彦命とも事勝国勝長狭命(塩土老翁命の別名)とも云われ、地主神と言い伝えられてきました。

さてこの影向石は、行基菩薩と法談されるときに腰掛けられたとも弘法大師とお会いになられた時に座られた石とも伝えられ緑がかった2個の石からなり、二人が座れるような石です。
囲っている玉垣も昔のままですが、戦災でだいぶ傷んでいます。

池永則俊田畑舎利壷等寄進状

念仏差帳日記